「移住の失敗」について考えてみる

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昨日WEBメディアのココロココの「移住の失敗」ってなんだ?を読んで、移住の失敗について自分なりに考えてみました。

 

記事の中ではこう書いてあります。

他人が成功/失敗のゼロイチで片づけて定義するのは、難しいですよね。

あえて分かりやすく、地元の人/行政の立場で考えると、やはり定住がベストで、「出て行ってしまった人」は失敗になるのでしょうか。

 

行政や役所が、人口を増やすために移住を促しているのなら、定住せずに出て行ってしまった人に関しては「失敗」となるのでしょう。

それから、こうも書かれていました。

人は死に場所を探して移住するのではなく、日々の暮らしを営むために移住するわけだから、結果として定住したかどうかではなく、期間が長くても短くても、その過程で何をしたか、どう暮らしたかが大事なはず。

移住の失敗は自分軸で判断できていないこと

じゃあ、移住した側からみたの失敗って何なのか。

移住してそんなに期間が経っていないので、仮設の段階ですが……

「移住して、なんか違うって思ってるのに変えられなくなる・動けなくなること」じゃないかな、と考えてます。

 

そもそも、自分が楽しく・幸せに暮らすために移住するんですよね。移住は手段だったはず。

 

したい暮らしがあって、移住したけど「ちょっと違うな」と感じて、色々やってみたけどうしてもうまくいかなくて、地域を出て行ったとします。

やってみたら「それは違った。だから、方向転換して他をあたろう」って行動できていたら、それは失敗じゃないはずです。

その人は、楽しく・幸せに暮らすために動けているから。

 

逆に「自分が楽しく・暮らすためには、場所を変えた方がいい」とわかっているのに、動けないことは失敗なのではないのでしょうか。

最初の目的が「楽しく・幸せに暮らすため」であったのなら。

 

移住して時間があまり経ってない人だと、送り出してくれた人たちの目が気になったり「失敗して戻ってきた」って言われてしまうんじゃないか、って心配したり。

移住してから時間が経っている人なら、地域になじんで、良くしてくれる人やお世話になった人、応援してくれる人がたくさんいるから、かもしれません。

そんな方たちがいるって本当に素敵なことですし、ありがたいし力をもらえる存在です。

ただ、その人たちに配慮しすぎている・他人の目が気になっているのであれば、これも最初に移住をした理由を考えてみる方がいいと思います。

 

移住は手段であって「そこでどんな暮らしがしたいのか?」っていうのは、常に忘れない方がいいと思います。

もちろん「どんな暮らし」は年齢や環境によってみんな変化していくことで、それが今いるところで引き続き実現できるなら、最高です。

住んでいなくても繋がっていられる

記事の中でも書かれていますが、移住したけど、そのあと地域を離れることになったとしても、そこでできた関係は当たり前ですけど、ずっと繋がっています。

知人・友人としてかもしれないし、お仕事でもあり得るはずです。

 

そういうご縁が繋がったことだけでも、幸せなことです。

移住していなければ、なかったものなので。

 

私たちはまだまだ移住したてで、日々楽しく暮らしているのですが、万が一「やっぱりちがった!無理だった!って思ったら帰ろう」と確認してから移住してきました。

骨をうずめるなんて、まず今は考えられません。

骨をうずめる覚悟が必要なら、がちがちになって行動できなくなってしまいます。

 

でも、やってみてダメでもひとついい経験して賢くなった、って考えれば失敗じゃない。

何のために移住した(する)んだっけ?っていうのを忘れないでいたいと思います。

 

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